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Sunday, May 2, 2021

「ぎりぎりの線の協力」政権と協調した元沖縄知事の懸念 - 朝日新聞デジタル

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拡大する写真・図版証言 動かぬ25年 普天間返還合意①

 なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。シリーズ「証言 動かぬ25年」。初回は、自民党政権との協調関係を8年にわたって築いた元沖縄県知事の稲嶺恵一さん(87)。辺野古移設を模索しながら、県民の支持を得た背景とは。

 ――普天間返還合意から今年で25年になります。

 「普天間が全く動いていないという状況は、想像もしていませんでした」

 ――もしかしたらこうなってしまうのでは、という思いもでしょうか。

 「それもありません。このような状況は夢にも考えていませんでした」

 ――知事時代は、基地問題に忙殺され、眠れない日々を過ごしたとも聞きました。今振り返ってみて、普天間返還のためもっとできたことはあったとお考えでしょうか。

 「ありません。100%やりました。それでできなかったというのは、私が微力だったんだろうというしかありません。力及ばず、申し訳ない」

拡大する写真・図版稲嶺恵一氏が主に普天間飛行場返還にかかわったのは

稲嶺恵一(いなみね・けいいち)

1933年生まれ。父が創業した石油販売会社の会長や沖縄県経営者協会長を歴任。98年から2期8年、沖縄県知事を務めた。自公政権に支えられ、条件つきで辺野古移設を容認したが、2006年に日米が現計画に変更。対立を残したまま退任した。在任中は九州・沖縄サミットが開かれ、本土復帰後初めて沖縄を訪問した米大統領のビル・クリントン氏を迎え、「平和の礎」などを案内した。

 ――現状をどのように見ていますか。

 「25年というのは一つの歴史です。国際情勢一つとっても全く違う状況が生まれ、時代は大きく変わりました」

 「普天間返還は、本当の意味で良い方向に持っていきたい、解決したい、という日本本土と沖縄の人たちの善意から出発したものでした。それが今のように膠着(こうちゃく)している。非常に悲しく、複雑な気持ちです。中央と沖縄の食い違いは最初からありましたが、それは25年の間にどんどん広まってしまったと思います」

 ――返還が動き出すきっかけは1995年9月、沖縄に駐留する米兵3人による少女暴行事件が起きたことでした。

 「95年の記憶は鮮明です。沖縄には、反米感情というものはあまりありません。米軍統治下にも、米国留学を経験して沖縄で指導的な立場になった人たちもたくさんいますし、米国の良さも知っています。ただ、基地に対する不満は当然あり、鬱積(うっせき)したものがあります。事件は、被害者が少女ですから、そうしたものが爆発しました」

拡大する写真・図版稲嶺恵一さん。現役時代、「沖縄県知事の仕事の7割は基地問題に割かれる」と語り、眠れない日々も多かったという=2021年4月1日、沖縄県浦添市、木村司撮影

 「私は昔からよく、『沖縄に…

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