ウインザー城での映画のような偶然の出会い
奥田 3年間のロンドン滞在で、大切なものを二つ手に入れたとおっしゃいました。一つはおそらく仕事ですよね。堀 はい。世界一周の経験がモノをいって、1971年に当時のパンアメリカン航空(パンナム)の日本支社に就職することができました。
奥田 それでもう一つは?
堀 これまで、あまり人に話したことはないのですが、トーマス・クックで日本人ツアーのアテンドをしていたとき、偶然、ロンドンのウインザー城で小学校の同級生に出会ったのです。
奥田 それは女性?
堀 ええ。
奥田 いまでもおつき合いがある方ですか。
堀 はい。うちのワイフです。
奥田 えー!? そんなことが現実にあるんだ。まるで映画みたいな話ですね。出会ったとき、お互いのことはすぐにわかったのですか。
堀 わかりました。その晩はワイフの友達と一緒に旧交を温めたのですが、ツアーの最中だからすぐ次の場所に移動してしまいます。それでしばらくは手紙で連絡を取り合って、帰国後の73年に結婚したのです。
奥田 いい話やなぁ。「世界一周の旅」の冒険なしには、奥さんと出会うこともなかったわけですね。
堀 そうですね。もっといえば、その前に東海道を踏破しなければ、この出会いはなかった。そこで挫けていれば、世界にも足を延ばさなかったわけですから。
奥田 おっしゃるように、そこに仕事や家族という人生の原点があったということですね。
誠意を尽くした上で「ノー」といわなければならない仕事
奥田 パンナムといえば、当時、世界をリードする航空会社でした。昔、大相撲の表彰式に出てきた支配人の「ヒョウショウジョウ」の印象がとても強いのですが、実際はどんな会社だったのですか。堀 高給で、休みが多く、飛行機には好きなだけ乗れるという夢のような会社でした。47年に日本に就航したのですが、日本の航空会社は国際線運航のノウハウをパンナムから学びました。まさにアメリカの強さを体現するような会社でしたが、競争激化の時代に入り、またテロのターゲットとなることも多かったため経営状況が悪化し、85年には太平洋路線をまるごとユナイテッド航空に売却することになったのです。
奥田 それで堀さんもユナイテッドに移られたということですが、具体的には航空会社でどんな仕事に携わられたのですか。
堀 航空会社の仕事は、働く場所によってエアポートとダウンタウンに分かれます。ダウンタウンは、営業、経理、総務などのデスクワークで、エアポートは、旅客、カーゴ(貨物)、ケータリング(機内食)などアクティブな仕事です。私は、お客さんと直に接する旅客の仕事に携わっていました。ひと言でいえば、“戦場”でしたね。
奥田 戦場?
堀 一般の方にはわかりにくいかもしれませんが、航空会社の旅客の仕事というのは、飛行機が予定通り発着しているときはルーティンの仕事をこなすだけですみます。けれども、飛行機というものはその特性上、イレギュラーなことがしばしば起こります。たとえばエンジンの不調で飛べない、台風の影響で遅延したり運航中止になる、他の飛行機が故障して動けなくなり滑走路が閉鎖されるといったことですが、そうした場合に渡航目的の異なるそれぞれのお客さんにその場で対応し、どんな処置をするか判断しなければならないわけです。
奥田 お客さんから「どうしてくれるんだ!」とクレームをつけられるわけですね。
堀 そうですね。ただ、飛行機の遅延で商談に遅れたためビジネスチャンスを逃したとか、旅行の予定が狂ってしまったとか、結婚式に出席できなかったとか、そういうことすべてに対して補償をしていたら、航空会社の経営は立ち行かなくなります。だから、イエス・ノーをはっきりさせることが大事で、誠意を尽くした上で「ノー」ということが仕事だったんです。
奥田 何かあったときの対応で、日本人のお客さんと外国人のお客さんで違うところはありますか。
堀 外国人の多くはコントラクト(運送約款)を認識していますが、日本人は知らない方が多いということですね。だから、日本人にはゼロから説明しなければならないケースが多いです。また、外国人はその場で問題を解決しようとしますが、日本人は言語の問題から、帰国してから解決しようとします。それに加え、同じ東洋人でも、中国人や韓国人に比べ日本人はおとなしいので、トラブル時の交渉事では不利になりがちですね。
奥田 なるほど、そういうところにも国民性が出るのですね。
堀 それに、その人の本性も出ますね。それからトラブルといえば、荷物がなくなったり目的地に着いていないということがしばしば発生します。
たとえば、ヒンズー教徒が瓶に入れて大切に保管していたガンジス川の水、コンペに参加するため中東に向かった丹下健三さんの建築模型、陸上の世界大会に出場する棒高跳び選手のポール。なくなったらたいへんなことになるものばかりですが、そうしたものがいとも簡単になくなるのです。
奥田 そんなハードな仕事を30年近く続けられて、55歳で登山ガイドに転身されますね。どういう心境の変化があったのですか。
堀 ずっとやりたいと思っていたからです(笑)。55歳から65歳の期間で自由に定年年齢を選べる会社だったので、55歳で辞めて「山歩塾」を開きました。
奥田 登山以外にも、テーマを決めた町歩きなど、ユニークな活動をされていますね。
堀 江戸切絵図を見ながら、江戸末期に開業し今も実在する蕎麦屋をめぐる「大江戸蕎麦三昧」とか、多摩川を河口の羽田から都合7日間かけて遡上する「多摩川源流紀行」など、われながら面白い企画ができたと思っています。丘陵地をトレイルする「フットパス歩き」もずいぶんやりました。
奥田 これから10年、どんなことに挑戦していかれますか。
堀 20年間アウトドアに携わってきましたが、まだやり残したことがあるのでそれを埋めることと、これまで記録してきた旅や仕事の膨大な資料を整理したいですね。
奥田 だいぶやりたいことをやってこられたと思うのですが、まだやり残したことがあると……。欲深いですね。
堀 うーん、言われてみれば、たしかに欲深いかもしれませんね(笑)。
こぼれ話
堀源太郎さんと私は「無名山塾」の仲間である。私は彼を「堀源ちゃん」、彼は私を「直さん」と呼ぶ。この欄に前々回登場していただいた岩崎元郎さんが創設された登山学校の同期生である。山の仲間たちはよく表現されるように“もさ”が多い。とにかく体力に自信があって、その上であらゆる登山技術を身につけようと参加している人ばかりなので、当たり前といえば当たり前だ。訓練が進むうちに、仲間ができてくる。体力が同じぐらいで、山に登る傾向が似た者同士がまとまる。
テントを担いで山を歩き続ける。晴、風、雨、雷、雪。尾根、藪、川、滝、岩場を歩く。自分の体と道具を使い、その時の自然の状況に順応しながら難所を抜ける。私は毎週末、これを繰り返した。体は山に登るたびに強くなり、山を歩くたびに、同好の士との距離は近くなり、ある時から、お互いに会話を交わすようになった。「直さん、ヨセミテへ一緒に行きませんか」と、実に丁寧な話し方でお誘いがきた。聞けばユナイテッド航空の地上勤務者だという。国内ばかりでなく、海外の旅も手慣れたものだった。もう一つ堀さんらしさを付け加えよう。機内ではキャビンアテンダントがそれとなく特別の気遣いをしてくれている。日頃の恩返しなのだろう。
お互いにハーフドームのクライミングに挑戦するタイプではない。テントを担ぎながら山を歩く。自炊してテントで寝る。その夜は長い。満天の星空はご褒美だ。ついつい話が弾む。堀さんの話を聞いていて、驚いた。『東海道五十三次』を歩いた人がここいる……。それどころではなかった。世界中をヒッチハイクで歩き通した、と聞いて、いつか、インタビューをしたいと思った。その日から25年が経過してついに実現した。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
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July 31, 2020 at 06:06AM
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